簸上清酒合名会社 | 島根県奥出雲町にある「七冠馬」「玉鋼」の簸上(ひかみ)清酒

奥出雲で紡ぐ、清らかな酒

簸上清酒と泡無酵母

こびない味わいを。 あたらしい旨さを。

変わらない価値観、大事にしているもの 当蔵が大事にしている酒造りは、バランスよくどんな料理にも合う味わい。ほどよい香り、まろやかな旨味、それでいてしっかりとした後ギレのよさ。その味は、食事の主役にも、料理の引き立て役にもなります。いつまでも飲んでいたくなるような、飲み疲れしない日本酒です。

酒の種類や飲み手、嗜好も多様化する昨今。華やかさ、甘酸っぱさ、強烈な旨味などの“わかりやすさ”が求められているかもしれません。しかし、簸上の300年余りの酒造りを支えてくださっている地元のお客様、そして簸上のお酒を美味しいと言ってくださる全国のお客様のために、私たちはこれからもこの味を守っていきます。皆様の食事をより楽しいものにするために。よりよいお酒をお届けするために。これまで当蔵が大切してきた酒造り、価値観を愚直に継続していきます。


あたらしいものへの挑戦 しかし、変化の激しい時代の中で同じ酒だけを造り続けていては、いつか取り残されてしまいます。酒質を守ることにこだわりすぎて、蔵がなくなってしまっては意味がない。一番大切なのは、奥出雲で酒を造り続けること。そのために、最新技術の習得や味わいの開発にも絶えず挑戦する。ブレない味という「幹」をしっかりと持ちつつ、あたらしい可能性に向けてつねに「枝葉」を広げていく。これが当蔵の酒造りです。

日本酒発祥の地、島根。 神話とたたらの里、奥出雲町。

旧暦10月。それは、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月。他の土地では神様が留守になるので神無月といいますが、出雲では神在月と呼びます。日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』をはじめ、出雲地方には様々な神話が伝承されています。その中で大きな役割を果たすのが、酒の存在です。

出雲市に所在する佐香神社。1300年前、奈良時代に編纂された『出雲国風土記』には「たくさんの神々が集まられて、煮炊きする調理場を建て、酒を造らせた。そして長い間、毎日酒宴を開いた後、去って行かれた。そこで酒みずき(酒宴)のさかによって佐香という」という記述が残っています。酒造りの神、久斯之神(くすのかみ)を祀り、日本酒発祥の地として伝えられているのです。

私たちが酒造りをするここ奥出雲町には、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が降り立ったと言われる鳥髪山(現在の船通山)があります。スサノオノミコトはその地を荒らしていた巨大な怪物八岐遠呂智(ヤマタノオロチ)への生贄にされそうになっていた櫛名田比売命(クシナダヒメ)に出会います。スサノオノミコトは八つの桶に強い酒を用意させ、桶に頭を入れて酒を飲み干し酔っ払って寝てしまったヤマタノオロチを剣で退治します。この酒は「八塩折(やしおり)の酒」として語り継がれています。

< 奥出雲の自然と酒造り >島根県東部の山間に位置する仁多郡奥出雲町は、周りを中国山地の山々に囲まれ、冬には日本海から吹き付ける季節風を受けて多くの雪が降ります。厳しくも豊かな自然に育まれた土地は「東のコシヒカリ、西の仁多米」と言われるほどの食用米が採れ、良質な酒米も生産する中国地方でも有数の米どころです。スサノオノミコトが降り立ったとされる船通山を源流とする斐伊川は、豊かな水量とやや軟質な水質を持ち、この地での稲作と当蔵の酒造りを支えてくれています。

簸上清酒の歴史

当蔵は1700年代前半、江戸時代中期の元号「正徳」の頃に創業したと語り継がれています。当時の屋号は「冨田屋」。その長い歴史の中で何度か大火に見舞われ、詳細な記録は残っていませんが、同じ郡内には当蔵を含め五軒の酒蔵があったといわれ、古くから酒造りが盛んな地域であったことが伺えます。

第十二代権次郎の時、1895年に酒造りが免許制となると交付を受け、1910年には町内の三軒の酒蔵が合併。今の「簸上清酒合名会社」の形となりました。当蔵の『簸上正宗』はこの頃から続く銘柄で、長い年月の間地元のお客様に愛され続けています。

1960年代には、第十四代田村浩三が当蔵の仕込みから泡無酵母の原種を発見。日本酒の製造技術の発展に大きく貢献しました。1966年にはそれまで蔵が所在していた横田町六日市(現奥出雲町)から、現在の蔵に移転しました。移転前の蔵は斐伊川からほど近い場所にあり、当時は今ほど川幅も深さもなかったため、しばしば洪水の被害にあっていました。安定して酒造りを続けるために移転して出来上がったのが、今の蔵です。

< 銘酒玉鋼とたたら製鉄 >奥出雲地方は古来から良質な砂鉄が採れる土地であることから製鉄業が盛んであり、伝統の製鉄法「たたら製鉄」で造られる和鉄「玉鋼」は日本刀の原料として全国の刀匠に供給されていました。戦後、海外から鉄が輸入されるようになり、たたら製鉄は廃れていきましたが、1977年に横田町(現奥出雲町)で復活。現在では、島根県東部にのみ伝承されています。この地元の伝統産業に由来する銘酒『玉鋼』が1987年に誕生。全国新酒鑑評会5年連続金賞や、インターナショナルワインチャレンジトロフィーなど数多くの賞を受賞。簸上の酒造りの品質を全国へ知らしめる商品となりました。

< シンボリ牧場との縁と、七冠馬の誕生 >1996年には、現在の当蔵の主力銘柄である、七冠馬を発売。これは1980年代に日本の競馬界で活躍したシンボリルドルフ号に由来する銘柄です。1986年にシンボリルドルフのオーナーの和田家と蔵元の田村家が親戚関係になったことから生まれました。

七冠馬について詳しくはこちら

泡無酵母について泡無酵母について

泡無酵母について

日本酒は麹菌と酵母という2種類の微生物の働きによって造られます。お米に含まれるでんぷんを麹菌の働きにより糖分に変え、酵母がその糖分を使って発酵することで、アルコールが生まれます。
この「糖化」と「発酵」を一つの容器の中で同時並行して行なう「並行複発酵」という醸造方法は、世界でも極めて珍しく、日本酒の製造技術の中でも特徴的なものです。

この発酵の過程において二酸化炭素が発生するため、発酵タンクでは大量の泡が出ます。この泡は放っておくとどんどん増えてタンクから溢れてしまうので、蔵人には「泡守り」という泡がこぼれないように夜通し番をする役割があり、大変な作業でした。

1962年。第十四代浩三の時に、当蔵の仕込みにおいて、通常ならばタンクいっぱいに真っ白な高泡が出るはずが、泡が出ないタンクが見つかりました。この事象の裏には何があるのか突き止めるために、浩三は東京滝野川にあった醸造試験所(現酒類総合研究所)にその仕込みの醪を持ち込みました。そして、当時技官であった秋山裕一氏(後に日本醸造協会会長)によって見出され、研究改良を重ねることで、現在の協会泡無酵母は誕生しました。泡無酵母は従来の酵母より発酵力が強く、泡守りが不要であるなどの利点が多いため、日本酒製造技術の発展、生産性の改善に大きく貢献しました。現在は全国の多くの酒蔵で酒造りに使用されています。

1996年。この地で泡無酵母が発見されたことを讃えて、当時蔵があった跡地に石碑が建立されました。石碑には秋山先生の直筆による「泡無酵母発祥之地」の文字が彫られ、日本酒製造の歴史におけるその功績を伝えています。

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